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「嫌われる勇気」を読みながら・2 [読書]

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(電子レンジのほこりよけ)

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我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです
他者の期待を満たす必要はないのです
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には
他人の人生を生きることになります

承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であって欲しい」という
期待をなぞって生きていくことになる
つまり、本当の自分を捨てて、他者の人生を生きる事になる

そして覚えておいてください
もしあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」としたら
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです
相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても怒ってはいけません
それが当たり前なのです

他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は
「他者の期待を満たすこと」をその手段とします
適切な行動をとったら褒めて貰える、という賞罰教育の流れに沿って

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「これは誰の課題なのか?」という観点

子供が勉強するのかしないのか、本来これは「子供の課題」であって
親の課題ではありません
そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して
いわば土足で踏み込むような行為です
これでは衝突を避けることは出来ないでしょう
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から
自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです
他者の課題には踏み込まない、それだけです

およそ、あらゆる対人関係のトラブルは
ー他者の課題に土足で踏み込むことー、あるいは
ー自分の課題に土足で踏み込まれる事ー
によって引き起こされます
課題の分離が出来るだけで対人関係は激変するでしょう

誰の課題かを見分ける方法
「その選択によってもたらされる結果を最終的に引き受けるのは誰か?」
を考えて下さい
(※放任主義を奨励するものではない、本人の課題であることを伝え
いつでも援助する用意があることを伝えておき、見守ると言う事)

貴方の期待や信頼に対して、相手がどう動くかは他者の課題なのです

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本を読んで、自分にとって役に立つのはこの二つかと思う点を書いてみた
これを落とし込めれば、すごく楽になる気がする(今が苦しいってことじゃないよ)
自分を楽にさせて安定していることが常になると
ちょとしたことでは感情がブレなくなる、そうすっと
自分が相手にとっても心地よい場となる・・・・と思うのだ(←一石二鳥的な?

「承認欲求を手放しなさい」ということは
色んな本に書かれてあるけど、それを手放せないでいる時は
出来ない時は出来ないから無理しないーでいる方がいいような気がする
なんとなく(←無責任な

承認欲求っていうのは、突き詰めれば最終的には
自分に自分を認めて貰いたかったんだ、自分が自分を認めたかったんだと
そんなところにたどり着くような気がするのだ(私の場合
だからほんとは他人からの承認なんて必要ないんだろうなと思ってる

他者の期待を満たすためにいきているわけじゃなくて
他者も自分の期待を満たすために生きているわけじゃない
これがちゃんと腑に落ちていれば
相手がどう反応するかどう思うかは相手の課題であって相手が決める事なんだ
自分の思い通りにならなくて当たり前なんだってことがわかっていれば
落胆するようなことがあっても受け入れられそうだ
こうすべきだ、であるべきだという信念が緩んで
お互いに自由でいられるようになるんじゃないかと思う

アドラー心理学では「全ての悩みは対人関係の悩みである」と言う
発端は全部そこから派生してるような気がすると私も思う


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